- 参観日は、子どもにとっていつもの幼稚園ではない
- 周りの子と比べてしまったのは、娘より私だった
- 「参加できる」と「安心できる」は、同じではない
- 帰宅後、いつもの娘に戻っていった
- 親にできるのは、参加させることより安心を増やすことかもしれない
- お姉ちゃんだから、ではなく、その子だから
- うまく参加できなかった日も、子どもの中ではちゃんと積み重なっている
幼稚園の参観日。
私は少し楽しみにしていました。
普段、娘が幼稚園でどんなふうに過ごしているのか。先生やお友だちといるとき、どんな顔をしているのか。
家ではよく笑い、よく話し、できることも増えてきた娘です。
だからきっと、少し照れながらでも、みんなと一緒に活動する姿が見られるのかなと思っていました。
けれどその日は、思っていたような時間にはなりませんでした。
娘は何度もこちらを見ました。
先生の声かけに反応しているようでいて、どこか気持ちはこちらに残ったまま。
周りの子が楽しそうに歌ったり、動物のまねをしたりしているなかで、娘はあまり動けませんでした。
「ママがいるからかな」
「緊張しているのかな」
「普段はもっとできるのに」
そんなことを、私はずっと考えていました。
そして帰宅してから、ようやく少し違う見方ができた気がしたのです。
娘は、参加できなかったのではなくて。
その場で安心しきれなかっただけなのかもしれない、と。
参観日は、子どもにとっていつもの幼稚園ではない
親にとって参観日は、子どもの普段を見られる日です。
でも子どもにとっては、いつもの幼稚園とは少し違います。
いつもはいないお母さんやお父さんが、教室の後ろにいる。
先生も少し違う雰囲気に見える。
お友だちも、なんとなくいつもと違う。
大人から見れば「ただ見に来ているだけ」でも、子どもにとっては教室の空気そのものが変わる出来事なのかもしれません。
特に、まだ年少の娘。
毎日少しずつ幼稚園に慣れようとしている途中です。
朝に「いってらっしゃい」をして、先生に引き渡して、そこから自分の時間を過ごす。
その流れが、娘にとっての安心につながっているのだと思います。
そこに突然、私が教室に現れた。
会えてうれしい気持ちもある。
でも、じゃあ私はどこにいればいいの?
ママは帰らないの?
今まで通り先生の話を聞けばいいの?
娘の中には、そんな小さな混乱があったのかもしれません。
もちろん、本当のところはわかりません。
でも少なくとも、「参加しなかった=楽しめなかった」「できなかった=成長が遅れている」と、すぐに決めつける必要はなかったのだと思います。

周りの子と比べてしまったのは、娘より私だった
参観中、周りの子どもたちがとても立派に見えました。
先生の話を聞いて。
手を挙げて。
楽しそうに体を動かして。
その姿を見ていると、どうしても比べてしまいました。
うちの子も、家ではできるのに。
前はもっと楽しそうに参加していたのに。
本当は賢いのに。
本当はもっとできるのに。
今思うと、その「本当は」という言葉は、娘のためというより、私自身の不安をなだめるための言葉だった気がします。
娘ができないように見えることが怖かった。
周りと違って見えることが怖かった。
母親として、ちゃんと支えられていないように感じるのが怖かった。
でも、娘はただその日の教室で、自分なりに過ごしていただけなのかもしれません。
動かなかった。
声を出さなかった。
何度も私を見た。
それも娘なりの「ここにいるよ」「ちょっと不安だよ」という参加の仕方だったのかもしれません。
参観日で見えたのは、娘の苦手さというより、私が娘に求めていた「わかりやすく楽しそうな姿」だったのだと思います。
「参加できる」と「安心できる」は、同じではない
子どもが集団活動に参加できること。
それはたしかに、ひとつの成長です。
先生の話を聞くこと。お友だちと同じことをすること。自分の気持ちを切り替えること。
でも、参加できることと、安心できていることは、必ずしも同じではありません。
その場に合わせて動ける子もいる。
気持ちが追いつかなくても、とりあえず参加できる子もいる。
逆に、安心できるまで少し時間がかかる子もいる。
どれが良くて、どれが悪いということではないのだと思います。
娘は、気持ちが整うまでに少し時間が必要なタイプなのかもしれません。
初めての場所。
いつもと違う人。
予定外の出来事。
大勢の視線。
そういうものを、娘なりにちゃんと受け取っているのかもしれません。
そのことを「繊細だから大変」と決めつけるよりも、「この子には安心のための時間がいる」と思えたら、私の接し方も少し変わる気がしました。

帰宅後、いつもの娘に戻っていった
参観日のあと、帰宅してすぐに娘にたくさん聞くのはやめました。
「なんでやらなかったの?」
「先生のお話聞こえなかった?」
「みんな踊っていたよ?」
そんなふうに聞いてしまったら、娘はきっと、自分の反応が間違いだったように感じてしまうかもしれないと思ったからです。
家に帰って、おやつを食べて。
少しゆっくりして。
いつもの遊びをして。
娘は少しずつ、いつもの顔に戻っていきました。
妹が寝ているあいだに、折り紙を出したり。
急に思いついたように、おままごとを始めたり。
くだらないことで笑ったり。
その姿を見ていたら、参観中に感じた不安が少しずつほどけていきました。
娘は壊れていない。
娘はできなくなったわけでもない。
ただ、あの時間は娘にとって、少し情報が多すぎただけなのかもしれない。
そう思えたとき、ようやく「今日もよく頑張ったね」と言えました。
何かをできたからではなく。
慣れない空気のなかにいて、自分なりにその時間を過ごしたから。
親にできるのは、参加させることより安心を増やすことかもしれない
子どもが不安そうなとき、親はつい「大丈夫だよ」「みんなもやっているよ」と背中を押したくなります。
もちろん、それが必要な場面もあると思います。
でも娘を見ていると、まず必要なのは「頑張らせること」ではなく、「安心していいと思えること」なのかもしれないと感じます。
たとえば、幼稚園の予定を前もって少し話しておくこと。
「明日はママが少しだけ見に行くよ」
「終わったらおうちでおやつ食べようね」
「先生とみんなで遊んでいるところ、ママも見ているね」
そんなふうに、見通しを渡しておく。
そして終わったあとには、「ちゃんとできた?」ではなく、「今日はどんな気持ちだった?」と聞けたらいい。
答えてくれなくてもいい。
言葉にならなくてもいい。
「ママが来ていたからびっくりしたかな」
「ちょっと見ていたくなったんだね」
そんなふうに、こちらから気持ちの候補を置いてあげるだけでも、娘は少しずつ自分の気持ちを知っていけるのかもしれません。
お姉ちゃんだから、ではなく、その子だから
下の子がいると、どうしても上の子に「お姉ちゃん」を求めてしまいます。
静かにしていてほしい。
待っていてほしい。
我慢してほしい。
できることは自分でやってほしい。
私も、気づかないうちにそう思ってしまうことがあります。
でも参観日で不安そうにしていた娘を見て、あらためて思いました。
まだ3歳。
お姉ちゃんである前に、甘えたい3歳。
たくさんできるようになったとしても、安心したい日もある。
先生の前では頑張れていても、私を見つけたら急に赤ちゃんみたいになる日もある。
それは後退ではなくて、私が娘にとって「戻れる場所」だからなのかもしれません。
そう考えると、娘が私を探すことも、少しだけ愛おしく感じられるようになりました。

うまく参加できなかった日も、子どもの中ではちゃんと積み重なっている
参観日を終えたあと、「ああすればよかったかな」と少しだけ反省しました。
もっと事前に話しておけばよかったかな。
もっと笑顔で手を振ればよかったかな。
もっと娘に目を向けてあげればよかったかな。
でもきっと、親が毎回完璧にできなくても大丈夫なのだと思います。
娘は、その日の教室で。
いつもと違う空気を感じて。
私を見つけて。
不安になって。
それでも最後までそこにいた。
その全部が、娘にとっては経験です。
次の参観日には、また違う姿が見られるかもしれません。
そのときも、楽しそうに参加できるとは限りません。
でも、今の娘に必要なのは「次はちゃんとやろうね」と言われることではなく、「あの日もママは見ていたよ」と覚えておいてもらうことなのかもしれません。
参加できることも、もちろん大切。
でもその前に、安心できること。
娘が自分のペースで世界を広げていけるように。
私は、少し急ぎすぎずに見守れる母でいたいです。